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The History
of NARASAKI Jinja
​七崎神社史
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The History of NARASAKI Jinja
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七崎神社の起源

​七崎神社(旧称:七崎山 徳楽寺)の起源

 平安時代、南都の四条中納言藤原諸江が勅勘のため流刑を受け漂泊の身となり、現在の白金に上陸したと伝えられています。浜ずたいに八太郎まで至り、そこで漁夫として暮らしていたある日、介鱗(魚貝類)を漁獲しようとした網に、「異相な霊体」がかかったとされています。そこで、藤原諸江は白金清水川上段(現在の白金清水観音の地)に、一小社を建立して、天長元年4月7日(824年)に安置奉斎(ほうさい=神仏などを身を清めて慎んで祀る事)したとしています。
 
 しかしその後、藤原諸江の霊夢により、七崎山に観音堂を建立し承和元年(834年)正月7日、「霊体」を七崎永福寺(現在の普賢院)まで諸江卿が供奉(ぐぶ=行幸や祭礼などのときにお供の行列に加わること。)して、七崎山に七崎聖観音菩薩御本尊としてお迎えし七崎観音堂を創設、遷宮(せんぐう=神体を従前とは異なる本殿に移すこと)したのが、七崎山 徳楽寺(現在の七崎神社の旧称)の起源と伝えられています

※現在でも、七崎神社の神事として「
お籠り(おこもり)」を、毎年旧暦の正月7日に行っている由縁です。「七崎観音様」移安先の普賢普では、10日後の、旧暦の正月17日を御開帳日として、「同お籠り法要)」を毎年行っています


 七崎山徳楽寺「本尊:七崎聖観音菩薩」(通称:七崎観音様)と称し、「糠部三十三観音の第十五番目の札所」として広く知られていました(七崎観音本堂は現在の七崎神社拝殿の位置にありました)。 近郷に名高い古刹で、村人の信仰はもちろん「南部藩の崇敬」も厚く、諸仏事・神事が行われ、八太郎浜への「神輿の旅」は、群衆三千余人もの人出で賑わったと記されています。『水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)より
尚、八太郎浜への「神輿の旅」(お浜いり)に起用されていた「お神輿」は、現在も、七崎神社の「お神輿堂」(二番目に太い文化財鉾杉の傍)に安置されています。
◆寛保3年(1743)に守西上人が著した『奥州南部糠部巡礼次第全』には、「七崎山徳楽寺 本尊聖観世音菩薩」とあり、「糠部三十三観音の第十五番札所」とされています。また、「別当ハ普賢院也 尤森岡ノ永福寺ノ持也 知行五百石ト云大社也」とあり、この頃には、現在の当地のお寺「普賢院(旧称:七崎永福寺)」が別当寺を務めていました。
◆起源当時から別当寺として、七崎山 徳楽寺の管理に当たっていた当地の普賢院(旧称:七崎永福寺)によると、藤原諸江が白銀沖で発見した観音様を、天長元年4月7日(824年)に安置奉斎した場所は、現在の「白銀の清水川上段」に祀られたとしています。七崎永福寺は当時から、同清水観音の別当寺でもありました。また、七崎観音由緒譚の或説として、白銀で観音様を引き揚げたのは「藤原諸江卿」ではなく「坂上田村麻呂公」を七崎観音の発見者&遷座者とする伝えもある、としています。
別当寺(べっとうじ)とは
神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれたのこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義。
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​御神木「天空の大杉・鉾杉(ほこすぎ)」三株 八戸市指定文化財の【起源と由来】

定説
七崎山に観音堂を建立し、承和元年(834)旧暦の正月七日に聖観音菩薩御本尊としてお迎えし、遷宮した時に記念樹として、四条中納言藤原諸江が杉の木七
本(九本ともいう)を植樹したと伝えられています。この杉が現在も境内に三本(大杉1本、鉾杉2本)残っており、八戸市指定文化財天然記念物になったとされています。



もう一つの普賢院(旧称七崎永福寺)による説:​
当初
から徳楽寺観音堂の別当寺であった、宝照山「普賢院」(旧称=七崎永福寺)によると、普賢院を「開基」あるいは「中興」したとする僧「行海」上人が植えたとしています。承安年間(1171~1175)、僧行海が、諸国を巡歴しこの地で密教を布教します。そのとき行海上人は「各地を巡ったがこれほどの霊地はない」といって、境内に七曜星(北斗七星=仏教では平和を意味する星)を形どって七本の杉を植えたとしています。その内の三本が今なお残っており「神の杉」と村人に呼ばれていた。明治以前は、現在のご神木「大杉」の所に「行海和尚お手植えの杉」という木札があったことが分かっています(神社で所蔵)。
「天空の矛杉」起源と由来
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富と福を授かるという強運ロゴ書き込み用_edited.png

明治維新に伴う「神仏判然令」「神仏分離令」により
明治以降「七崎山 徳楽寺」は、
諸神を相殿として郷社に列各現在の「七崎神社」へ奉称

 日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成(習合)され、1000年以上続いた宗教現象を示す「神仏習合」の頃は、「聖観音菩薩」を本尊とする「七崎観音本堂」が、現在の七崎神社の拝殿の位置にありました。「七崎観音」は糠部三十三観音霊場第15番札所の観音様」として名高く、多くの参拝客で賑わっていたと伝えられています。

 江戸時代に入ると、神道の優位を説く思想が隆盛し、明治維新に伴う「神仏判然令」(維新政府の政策)により、明治元年の初めごろまでは、七崎山 徳楽寺を称しておりましたが、同年、全て旧例を廃し、仏像を除き、諸神を祭り、伊弉冉命(伊邪那美命(いざなみのみこと)は豊間内村より、天照皇太神は扇田村より、稷魂神は野沢村より、菅原道真は五戸村より合祀し、四柱を相殿(あいどの)として郷社に列せられ、「七崎山 徳楽寺」から現在の「七崎神社」に奉称(明治8年5月列格)されています。明治初年の神仏分離令により、当時の僧守が「当寺は今後神社として伊弉册命を祀り、七崎神社と奉称する」として改めて出発しています。



 また、明治の「神仏判然令」が発布された同時期には、1000年も続いた「神仏習合」当時から別当寺として七崎観音を御守していた「七崎永福寺」(七崎神社から300m下った現在の「照宝山・普賢院」)へ、徳楽寺当時の「七崎聖観音菩薩ご本尊、並びに、末社12宮と共に仏像などは全て移安」し普賢院に安置され、現在に至っています。

しかし、七崎永福寺へ移安された後も、「ご利益があると七崎観音様をお慕い」し、多くの人々が絶え間なく、元の安置先七崎山に訪れた為、もう一度、「七崎聖観音菩薩ご本尊」を、七崎永福寺から初期の徳楽寺(現在の七崎神社)へ、再び移安したとする記録が、現在の普賢院に残っています。
※「神仏判然令」とは:明治元年(1868) 年3月 27日の太政官布告によって,従来あった神仏習合の風をこわそうとした維新政府の政策をいう。 この政策から仏教を排撃し,神道を極度に重んじようとする過激な廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく) 運動が起った。

​※「神仏分離令」とは:神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。明治政府は神道の国教化政策を行うため、明治元年(1868)3月から、神社から仏教的な要素を排除しようとしました。 これが「神仏分離」政策です。 神名に仏教的な用語を用いている神社の書上げ、仏像を神体としている神社は仏像を取り払うこと、本地仏、鰐口、梵鐘の取外しなどを命じました。
神仏分離令と神社史

​七崎山 徳楽寺「七崎観音本堂の火災(1649年)と再興」


 当初の七崎山徳楽寺聖観音堂本堂は四間四面萱葺の建物とされていますが、慶安2年(1649年)観音堂付近への落雷により七崎観音堂は焼失し、再興されたとしています。今でも「七崎神社拝殿」に向かい左手前に立つご神木「イチイの樹」の根元には、当時の火災の影響による焼跡が癒えず、痛々しく残っています。

「普賢院」によると、この火災の時に、南都の四条中納言藤原諸江が徳楽寺に遷宮したと伝えられる「七崎聖観音菩薩御本尊」は、「焼失した」としています

その後、1655年に盛岡藩二代藩主南部重直の代と、貞享4年(1687)三代藩主重信の代に、新たに、聖観音菩薩仏像を奉納し、七崎観音堂は再興されたとしています。
その仏像は、現在の普賢院の観音堂に受け継がれています。
◆普賢院第65世住職 品田泰峻 合掌によると(2021.10月取材記録):

二代目藩主「南部重直公」奉納の聖観音(1655年)、三代目藩主「南部重信公」奉納の聖観音貞享4年(1687)は、現存しています。重直公が観音堂並びに十二宮を再興した際の棟札を普賢院が所蔵しています。重信公が再興した際の棟札は神社が所蔵しているはずです。その証として、明治〜大正期の普賢院の記録によると、神社所蔵となっている観音堂時代の棟札が存在します。

なお、重直公奉納の
聖観音が観音堂本尊、重信公奉納の聖観音は、その御前立ちとして祀られていました。
「明治から大戦の激動期を背景に諸事情があり、現在は、御前立ちの聖観音が七崎観音として祀られていますが、本来の七崎観音は「重直公奉納の聖観音」です。こうした経緯から、今後は、重直公奉納の聖観音を「本七崎観音」、重信公奉納の聖観音を「現七崎観音」と称することとしています

2021年現在、「七崎観音」として普賢院に祀られている仏像は、「南部藩三代藩主重信」により「1687年に奉納された仏像」です。「二代藩主南部重直が奉納した仏像」は、普賢院本堂改築工事中につき、秋田県で専門家による修復復元下にあります。本堂が完成する2022年の秋には、お披露目致します。尚、普段は秘仏として「本尊の扉」は閉じられていますが、「開帳日の旧暦正月17日」に、一般公開をしています。
◆宝暦年間の『御領分社堂』によると、七崎観音堂は、四間四面萱葺の建物で、盛岡永福寺持とされ、明暦 ( めいれき)元年(1655年)盛岡藩二代藩主南部重直」の代と、貞享4年(1687)「三代藩主重信」の代に再興されたとあります。

●前述の『御領分社堂』とは:宝暦13年(1763)、南部藩領内(岩手県・青森県)に存在する社堂(接社・末社合わせて)2384社の、規模、現状、祭神、縁起、由来、管理者を記載。 社堂がない場合は社地のみ、いつ無くなったか、山自体が神体であるなど、精密な記載となっています。

 
曲線の木製ライン
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​ 左画像(携帯サイト上画像)

​「現七崎観音像」南部藩3代藩主南部重信公により、貞享4年(1687)に奉納された「本体仏の御前立」の聖観音菩薩仏像。現在は、宝照山普賢院観音堂に祀られています。
​ の画像(携帯サイト下画像)

七崎山徳楽寺」観音堂は糠部三十三観音の第十五番目の札所」として、広く知られ近郷に名高い古刹で、村人の信仰はもちろん「南部藩の崇敬」も厚く、諸仏事・神事が行われ、例大祭に行われた八太郎浜への「神輿の旅」は、群衆三千余人もの人出で賑わったと記されています。右は糠部三十三観音の第十五番目の札所」であった証しの木札です。明治以降普賢院に移安され現在の観音堂に同木札が掛けられています。
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2022年2月7日神事「おこもり」の際、「希望の星大鳥居再建」事業の成功を示唆するかの様に現れた、左記「現七崎観音御本尊」の炎の化身の姿です。
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真言宗豊山派「照宝山・普賢院」(旧称:七崎永福寺)について
 起源は平安時代にまで遡り、弘仁初期(810年頃)草創、承安元年(1171年)開基の古刹です。十和田湖伝説の南祖坊が当山にて修行したとされます。古くは永福寺という寺院名で、南部藩の祈願寺でした。南部氏が盛岡に拠点を移す際、永福寺も盛岡に改めて建立されることとなり、以後当山の寺院名は普賢院となりました。(左の画像:本尊 愛染明王 3つの目、6本の腕、獅子の冠など幾つもの特徴があるお姿は、量り知れぬ程深い智慧と慈悲を象徴しております。
 「照宝山・普賢院」第65世住職 品田泰峻 合掌(2021.10取材)によると:
普賢院(旧称:七崎永福寺)の草創期の寺号(お寺の名称)は不明としています。普賢院過去帳に、当山開創(初代住職)圓鏡(えんきょう)が弘仁8年(817)に亡くなられたとあり「810年頃に開創」と公開している根拠はそこにあります。諸説を踏まえ、最近では「延暦・弘仁年間に開創」としています。



◆旧称「七崎永福寺」という寺号は鎌倉〜江戸期にかけて用いられており、近世の史料によると永福寺という寺号の由来は、神奈川県鎌倉市二階堂の「永福寺(ようふくじ)」にあります。永福寺(ようふくじ)の僧・宥玄(ゆうげん)が南部氏より三戸に建立された永福寺(えいふくじ)を任され、その時に七崎の地も恩賞として与えられたとしています。それにより七崎にあった当山の管理も行うこととなり、「永福寺の僧侶が管理するお寺」ということで、いつしか、当山も永福寺と称されるようになったとされています。

「南部藩の祈願寺」として、広く知られています。盛岡に本坊・永福寺が構えられた後、七崎永福寺(現普賢院)と三戸永福寺(嶺松院)を自坊とし、遠隔地でありながら直轄寺院としています。永福寺は南部盛岡藩の筆頭寺となり、多くの末寺を抱えることになり、当山はその祖院にあたります。一時、本坊・盛岡永福寺には住職として京都の仁和寺より院家が迎えられ、格式がとても高くなりそれに伴い、お寺の縁起や由緒もそれに見合った形に手直しされたりしています。

※仁和寺(にんなじ)とは、京都市右京区御室大内にある真言宗御室派の総本山の寺院。山号は大内山。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は宇多天皇。「古都京都の文化財」の構成資産として、世界遺産に登録されています。



​実在した僧侶南祖法師の修行の寺」として、広く知られています
十和田湖伝説の南祖法師(なんそほっし=貞観年間の860年代、熊野権現の申し子として南部町斗賀神社に生まれた南祖丸という童子が、修行したとされるお寺です。南祖法師は南祖坊(なんそのぼう)と通称され、広く親しまれてきた伝説の僧侶で、宝照山普賢院第2世・月法律師(がっぽうりっし)の弟子であり、月体和尚の下で学問を修め(7歳〜10年間ほど学問を教わり修行したとされています)、その後「南祖坊」と名を改め熊野三山や諸国行脚に出たその途中に、十和田湖の主・八の太郎と九頭竜と化し闘って追放した後に、十和田湖の龍神「青龍権現」になったとされます

※七崎神社及び普賢院の地元豊崎町には、
今でも「南祖坊通り」という地名があり「南祖坊の祠」が現存しています。また、南祖坊の父である藤原(堤之)(後に宗善と名のる)は、馬を見る目が優れ人々から尊敬されていたことから、没後、馬の守護神として豊崎町に「蒼前神社」を建立し、家畜を守る神様として祀り、現代に受け継がれています。
「十和田神社となんその坊」
熊野で修行した南祖坊が、鉄の草鞋と錫杖を神から授かり、「百足の草鞋が破れた所に住むべし」と夢のお告げを得て、諸国をめぐり、十和田湖畔で百足の草鞋が尽きたとされています。当時、十和田湖には八郎太郎というマタギが、湖の岩魚や水を喰らううちに八頭の大蛇となり、湖を支配していたそう。そこで、南祖坊は、その霊験により九頭の龍に変化し二十尋(約36m)の身体を、十曲(とわだ)に曲げ、八郎太郎を退治したという伝説が残っています。南祖坊を青龍権現として崇め祀った名残りが今もあり、境内の熊野神社には彼の履いていたという鉄の草鞋が奉納されています。

 
青森県ねぶたの絵図としても登場する「南祖坊と八郎の戦い」十和田湖伝説・三湖伝説
三湖伝説とは、青森・秋田にまたがる十和田湖・八郎潟・田沢湖を舞台とする壮大なストーリーです。
十和田湖に伝わる十和田湖伝説は、南祖坊と八郎太郎の闘いを描いています。
 

 南祖坊との闘いに敗れ十和田湖を追われた八郎太郎は数々の試練を乗り越え、ついに八郎潟を安住の地とします。そして最終的に、同じような境遇にあった美しい女性・田沢湖の辰子と結ばれることになるのです。
 

 八郎潟と田沢湖にも同じ伝説が伝わっていて、各地に八郎敗走の足跡も残っています。現在でも八郎潟の潟上市では八郎神社を祀り、毎年八郎祭りが行われています。田沢湖の潟尻集落では、「八郎が辰子に会いにやって来た時の水音を聞くと命を落とす」と言い伝えられ、八郎が田沢湖にやってくる毎年11月9日はその水音を聞かないように飲み騒ぐ風習が今でも残っているそうです。

​最も古い、本来の「十和田湖縁起」とは
​ 数多くある龍神伝説の中で、最も古い、≪十和田湖縁起≫とされているのが『三国伝記』です。360話を収録(インド・中国・日本のお坊さんたちが集まり伝記などをまとめた本)しています。

その第巻十二第十二話「釈難蔵(南祖坊)得不生不滅事」と 題する説話が、「十和田湖の龍神伝説」最古の縁起とされています。15世紀初め、天台系の僧「玄棟(げんとう)」による説話集「
三国伝記」の中の「釈難蔵、不生不滅を得たること」に、記されています。

そこには、「十和田湖伝説」で語り継がれる八郎太郎の物語も、「三湖伝説」も、ありません。​実は、「南祖坊の物語」と「八郎太郎の物語」とは、元々、別の説話でした。


十和田湖で語られていたのは、南祖坊(難蔵、南宗坊ともいう)の物語で、八郎太郎の物語とは、鹿角など米代川流域や八郎潟周辺、糠部地方、北上川流域一帯などで、語られていたものでした。​それが、江戸時代の後期に合体され、一つの説話になった経緯があります。
照宝山 普賢院(旧称七崎永福寺)
「南祖坊と八郎の戦い」
修験者たちの補任状発見!
七崎神社は,熊野三山・出羽三山で修行を積んでいた修験者たち
「修験道の活動の一大拠点」だった!
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※上記画像について明治天皇御巡幸を控え、青森県がまとめて国に提出した地誌「新撰陸奥国誌」に描かれている記録で、江戸時代の様子が分かる貴重な史料とされている「新陸奥国誌」明治5年/1872刊掲載された「七崎山徳楽寺(現在の七崎神社)」一帯の風景模写・東京大学資料編纂所収蔵謄本写本です。
南祖坊と修験者たちの【霊山十和田開山の拠点】だった、七崎神社(旧称:七崎山 徳楽寺)と宝照山 普賢院(旧称:七崎永福寺)
十和田御堂の寺号が「額田嶽熊野山十灣寺」(額田嶽は八甲田山)であったことから分かるように、霊山としての十和田山は、≪糠部側から開山された熊野修験系の霊山≫でした。

南祖坊による霊山十和田の開山は、平安時代末期とされています。南祖坊と修験者達の霊山十和田開山の拠点となっていたのが、現在の、「七崎神社」(旧称:七崎山 徳楽寺)と、「宝照山 普賢院」(盛岡南部藩の祈願寺とされていた旧称:七崎永福寺 )の、一帯でした。(上記画像を参照)

七崎神社は、創建1200年奉祝記念祭を迎える八戸市で最も古い郷社で、「修験の大規模な拠点寺社」であった史実が明らかになり、「南祖坊修験者一派が実在していた」とされています。

 
修験道は、平城京に都があった奈良時代(710年〜794年)に成立した、日本独自の宗教で、外国にはない山岳信仰と仏教が習合した信仰です。

創建834年の七崎神社のシンボルでもある、北斗七星をかたちどり植えたとされる七本の杉(八戸市指定文化財として三本現存する)「千年大杉や鉾杉」が描かれていないことから、七崎神社創建後(平安時代)間もなく、徐々に「修験者たちの大規模な拠点寺社」が、形成されていったのではと想定されています。南祖坊による霊山十和田の開山は、平安時代末期とされていることからも、妥当な想定と思われています。
下段に描かれた「寺内門」通りに沿っ修験者の坊がいくつも立ち並び、修験道の拠点だった名残が、うかがえます。修験の大規模な拠点寺社で、「南祖坊修験者一派が実在していた」とされています。画像中央右には、善行院(修験寺院)があり、左側には、大覚院(修験寺院)があります。別当寺院 七崎永福寺(現在の普賢院)は描かれていませんが、七崎山徳楽寺に至る約300m手前右側となります。
​修験者たちの修験道とは
 十和田山は、俗界を離れた清浄な地、自然の霊力に満ちた奥深い山岳・湖水であり、仏教者や修験者が山岳修業を行うための場所として開かれた霊場でした。修験道の「修業の行場」が各所に設けられていました。

「修験道」は、厳しい自然環境にあえて身を置くことで心身を鍛錬し、悟りを開くことを目的とします。「修験道」は、日本独自の宗教で、外国にはない山岳信仰と仏教が習合した信仰で、霊山・深山幽谷に分け入り、厳しい修行を行うことによって、超自然的な能力を得て世を救済しようという宗教でした。そして、山々に伏して、修行する姿から「山伏」と呼ばれていました。

 
​修剣者たちの三つの要素
  1. 俗世からの隔絶(秘境性)
    世俗的な喧騒や誘惑から離れ、修行に専念できる環境であることが不可欠です。人里離れた山奥や深い渓谷、容易に立ち入れないような場所が選ばれます。

  2. 厳しい自然環境
    修験道は、厳しい自然環境にあえて身を置くことで心身を鍛錬し、悟りを開くことを目的とします。そのため、寒さ厳しい滝つぼや、暗く湿度の高い洞穴など、肉体的な苦痛を伴う場所が適しています。

  3. 霊験あらたかな場所(宗教的意義)
    単なる物理的な厳しさだけでなく、その土地が山岳信仰や神仏習合の歴史において霊場とされてきた場所であることが重要です。修行者は自然そのものを神仏の顕現と捉え、畏敬の念を持って修行に臨みます。 



 修験道は、平城京に都があった奈良時代(710年〜794年)に成立し、開祖は役小角(えんのおづの)、または役行者(えんのぎょうじゃ)という呪術者でした。役氏は、当時大和国や河内国に多数存在した一族で、役小角は実在した人物とされています。しかし、修験道の開祖としての人物像などは、後に創られたとされています。役小角は634年に現在の奈良県御所市に生まれ、現在は、その地に吉正祥寺が建立され功績が伝承されています。

 七崎神社で平成19年に、約200年前の江戸時代の古文書「補任状(ぶにんじょう)」6枚が発見された。
 

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発見された​補任状

平成19年に、約200年前の江戸時代の古文書「補任状(ぶにんじょう)」6枚が発見されました。
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​お籠り堂・行屋堂

 この「補任状」は、それぞれ1813年(文化10年)、1838年(天保9年)、1859年(安政6年)に書かれた書類で、七崎の3人の修験者・善行院栄元、善学院栄貞、善明院栄隆の担当地域を定めた認証状でした。それは、修験道(しゅげんどう)の総本山である、熊野三山(和歌山県:熊野本宮大社、熊野神宮大社、熊野那智)奉行の検校(寺社の総務を監督する役職)が、発行したものでした。そこには、新郷村戸来の修験者・多聞院の名もあり、当時、五戸・新郷・豊崎が盛岡南部藩領であったため、盛岡の修験者の系統下にあったことも分っています

 
江戸時代以前、これらの修験は神社と普賢院(旧称:七崎永福寺)との間に坊を構えていたと考えられ、そこは寺院領域として重要な空間だったことが分かります。

 修験者は、山野に起き伏し、難行苦行の修行を積んだ僧侶のことで、特殊な霊力を持っていると考えられていました。雨乞い、日和乞い、風鎮祭、守り札の配布、火防池祭、病人の快復祈祷、修行霊山への案内などの加持祈祷を行い、広く人々の心の拠りどころとなっていたのです。

​ 
補任状は、そのような修験者の活動・担当地域を定め、修験者それぞれに院号を与えたものです。いわば、その資格を保障する認証状でした。江戸時代に修験者は修行で山野を自由に巡り歩いていましたが、やがて、村里に定住するようになると、補任状で地域担当が定められ祈祷などを通して村人と深く結びついていったのです。

 現在でも七崎神社境内には、籠り堂(こもりどう)があり、修験者たちが修験道の総本山である熊野三山(熊野本宮大社、熊野神宮大社、熊野那智)に参詣に向かう前に、ここで身を清めていたとしています。

 

●【補任状(ぶにんじょう)】とは、特定の個人を官職位階諸職補任する際に任命権者側から発給された文書の総称。(発見された補任状は、修験者の活動地域を定め、院号を授与し、活動を保証する認証状・免許状・許可証のようなもの)
【修験者(しゅげんじゃ)】とは、修験道を修行する人。多く有髪(うはつ)で、兜巾(ときん)をかぶり、笈(おい)を負い、金剛杖(こんごうづえ)をつき、ほらを鳴らして山野をめぐり歩いて修行する。山伏(やまぶし)。

●【籠もり堂(こもりどう)】とは、修行者や信者などがこもって祈願、修行する堂。

 上記の補任状(ぶにんじょう)」に関する内容は、松原新一氏(まつばらしんいち)が奥田卓司氏(おくだたくじ)を取材した時の公開されている内容を引用させていただきました、有難うございました。

〇松原新一(まつばらしんいち)/プロフィール
69歳。はっちボランティアガイド。歴史が好きで、学生時代4年かけて日本一周史跡めぐりをした。退職後は地元の史跡をかけずり回り、地元のすばらしい史跡に驚く。知れば知るほど歴史っておもしろい。誰かに紹介せずにはいられない今日この頃。


奥田卓司(おくだたくじ)/プロフィール1937年生まれ。元中学校の教師。七崎神社から補任状の解読を依頼されてから、郷土の歴史を受け継ぎ、次の世代へ伝えていかねば、と思ったという。趣味は俳句で、俳句結社「たかんな」で活動し、同結社発行の俳誌「たかんな」の編集長も務める。

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青森県で最も古い”旧郷社の一つ”とされる「郷社 七崎神社」(ナラサキジンジャ)。その起源は神仏習合期、七崎山「徳楽寺」と称し、名高い古刹で人々の信仰や「南部藩の崇敬」も厚く大変ご利益がある「七崎聖観音菩薩御本尊」(通称:七崎観音)を遷宮した本堂が、現在の拝殿の位置に建っていました。また、修権者たちの​「修験道の一大拠点寺社」であった史実も明らかになっています。地域の安泰と繁栄を託し「北斗七星」を形どり7本の杉を植樹したと承伝されます。八戸市文化財天然記念物「大杉一千年」と「鉾杉」2株の三本が現存し、数々の伝説が語り継がれる七崎神社、天然記念物三株は鎮守の杜の静けさを保つパワースポッとして親しまれています。
七崎神社保存【永久の会】事務局
青森県八戸市豊崎町上永福寺40 〒039-1109
七崎神社所在地:​青森県八戸市豊崎町上永福寺127−2
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