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富と福を授ける強運の神社
創建:永安初期承和元年834年
七崎神社 保存「永久の会 」公式サイト
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「七崎姫」の伝説
七崎神社の神事として明治以前迄行われていた八太郎まで御神輿が運ばれる「お浜入り」
七崎姫の伝説
南都の四条中納言藤原諸江の娘
「七崎姫」が沼の主大蛇を懲らしめ交わした約束を、年に一度確かめるために行われた八太郎までお神輿が運ばれる「御浜入り」の行事は、馬に乗った供奉や、神主に守られた御神輿等で行列を作り、八太郎の「おみこし沼」へ「御浜入り」したと伝えられています。「七崎観音」は、近郷に名高い古刹で、村人の信仰はもちろん「南部藩の崇敬」も厚く、諸仏事・神事が行われ、八太郎浜への「神輿の旅」は、群衆三千余人もの人出であったとされています。
七崎姫の伝説
昔、八太郎(蓮沼)に大蛇が住んでおり、毎年美しい娘を捧げなければならなかった。今年はある村の長者の一人娘と定まっていた。都から流されてきた藤原諸江卿の娘「七崎姫」がこの話を聞き、一巻のお経と刀を持って身代わりになるという。村人は嘆き悲しみながらも、姫を神輿に乗せて沼のほとりまで運び、祭壇をしつらえ、姫を残して立ち去った。
すると、真夜中、真っ暗な沼の中ほどの水が大きく割れ、ものすごい風と轟音を立てながら「沼の主の大蛇」が現れて姫を引き込もうとした。しかし、姫が一心に念ずる経文の呪力にさえぎられ果たせずに、水底に引き返す。これが幾度となく繰り返されるうち等々「沼の主の大蛇」は降参した。姫は「今後、村人に祟りをしないように」と誓わせ、大蛇は「沼の守り神になる」と約束し沼底に去った。
翌朝、祭壇の前で気を失って倒れている姫の姿を見た村人たちは、必死に介抱するも、姫は息絶えてしまった。これを不憫に思った長者と村人は、七崎山に立派な観音堂を建てて姫を祀り、八太郎沼には明神様を祀って、沼に封じ込めた大蛇の霊を慰めたのだという。
この七崎姫の話は、土俗信仰と仏教縁起が結び付けられた、竜や蛇に化身する水神と姫神にまつわる説話である。
かつて、「七崎観音の例大祭の9月7日」には七崎観音堂(現七崎神社)から、八太郎の蓮沼神社までお神輿が運ばれる「御浜入りの行事」があった。
それは、姫の没後にも毎年、「七崎姫」が沼の主と交わした約束を年に一度確かめるために行われたものだという。大蛇が悪さをしていないかと見に行っていた。馬に乗った供奉や神主に守られた御神輿等で行列を作り、長苗代を八太郎にかけて白木のお神輿を担いで通り、その後は高館の上にかかり、林のなかを蓮沼と北沼との間に下り、沼の向こうの市川通りを行って、北沼の中頃にあるオミギ沼(御神輿沼)に渡御しました。
八太郎の「オミギ沼(御神輿沼)昔は北沼の中頃にあった」へ「お浜入り」したと伝えられている。明治に入ると神仏分離となり、この行事もすたれ、村人も行かなくなった。
その後ある日、村人が行くと、「う~ん、う~ん」とうなる石があったので、七崎神社に運んだ。すると、うならなくなったといわれています。この石は「八太郎の唸り(うなり)石」と呼ばれ、現在でも七崎神社に安置されています。
(※「八太郎の唸り石」下記画像をご参照ください)
お公卿様の姫君の「七崎姫」が観音様のおたすけにより、八太郎沼の悪い竜を退治したこうした伝説もあり、ますます霊験あらたな七崎観音様として、当地方の人々の信仰をあつめました。七崎山徳楽寺と称し、糠部三十三観音の第十五番目の札所として、広く知られていました。
近郷に名高い古刹で、村人の信仰はもちろん「南部藩の崇敬」も厚く、諸仏事・神事が行われ、八太郎浜への「神輿の旅」は、群衆三千余人もの人出で賑わったといわれています。『(水神竜神 十和田信仰』(小館衷三)より
尚、「オミギ沼(御神輿沼)の辺りは、現在は港湾となっていますが、その造成中に「聖観音」と刻まれた石碑が発見されました。こちらはもともと八太郎の蓮沼にあったものですが埋め立てに伴い豊崎町の普賢院(旧称七崎永福寺)にお迎えして、「北沼観音」として安置しています。発見された石碑は「七崎姫」を偲んで八太郎周辺に住む人たちが建立したものだろうといわれています。
八太郎の唸り石
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